江別市の未来に役立つ提案を | 江別市議会議員・堀直人

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民主主義ってどうなんですか?

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「民主主義は最悪の政治形態らしい。 ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。」

ウィンストン・チャーチルの言葉です。わたしは編集者なので、立候補した際には、その一部始終をレポすることで、もう一度、民主主義を一から考えるきっかけになる本をつくりたいと思っています。

特に地方選挙、しかも古くからの住民も少ないまちでは、とかく投票率は低いです。しかしこの選挙権は、多くの人が闘って勝ち取ったものでもあります。投票する権利は、当たり前にただそこにあったものではないと言えます。

政治というと国政を連想しますが、はじめて政治を見て取るときには、身近な事柄を扱う地方政治の方がイメージしやすいとわたしは感じています。まちを、どうやって動かしていくのか。まちづくりの手段としての政治を、議会の現場から切り取っていくことで、民主主義による意思決定の成熟の一助になれたら幸いです。

というわけで、「民主主義ってどうなんですか? - まちづくりの手段としての地方政治(仮」。こちらも併せて、乞うご期待!(笑

未来を信じられるまちを、わたしたちでつくるために

10年後、わたしたちのまちが、未来を信じられるまちになるための提案ということで、これから概略を書いていこうと思います。まずは提案に至る「視点」を記していきたいと思うのですが、その視点は以下の6つです。

視点1:人口が減りゆく未来に備えるまちづくり
視点2:生まれてから世を去るまで不安なく暮らせるまちづくり
視点3:やりたい人がやれる文化と経済の相乗効果を創りだすまちづくり
視点4:できる/したい/やるべきを共に分かち合うまちづくり
視点5:最適な地域経営によって執り行われるまちづくり
視点6:議会で何が決められているかわかる真の意味で開かれたまちづくり

それでは次回、<視点1>から更新してこうと思います。

何をやってもダメではなく、やればできると思える社会を

はじめまして、oriaiです。ブログタイトルにもあるように、市議会議員に立候補してみようと悩んでいます。悩んでいるのですが、悩んでいてもはじまらないので、どういう社会を実現したいのか、具体的に何を訴えたいのか整理するために、ブログに書き記していこうと思います。

わたしは元より、まったく政治には感心がない人間でした。ただ少しでも社会をよい方向に向かわせる一助になりたいと思い会社員をやめてから5年間、ビジネスやメディアづくりを通して行動してきました。またその過程で、社会には大きく政治が関わっていることを知ります。わたしは、理想を成し遂げられる力がほしい。

手段としての政治。もしわたしがこの道を歩くとするならば、そういうことになると思います。また、社会を維持していくひとつの機能として、短期的に最も効果的を上げる方法だとも感じています。何故か。それはわたしと同じように、多くのひとは政治から心が離れているからです。いま政治は、底値であると言えます。

さらに、地方議会。わたしたちは特に、この機構についてよく知りません。しかしとある中規模の街では、2億円程度の予算が使われているのもこの地方議会です。すでに予算化されているだけでなく、仕組みまで構築されている市議会は、(身近に議会がない市民感覚で言うと)まちづくりの未利用資源であり、このシステムはより有効活用しない手はない。いままさに、社会をブレイクスルーするのは、地方議会なのではないでしょうか。

わたしはいま、編集者という仕事をしています。それがたとえ地方議員となっても、目指すものは変わりません。わたしは「何をやってもダメではなく、やればできると思える社会」をつくりたい。そのためには、必要なことはどんなこともやっていきたい。それがひいては、わたしにとっても希望ある暮らしになると信じているからです。

ずっと、閉塞感を感じて生きてきました。閉塞感とは、けっして悪条件から生まれるものではないはずです。たとえ状況が悪くても、それを「改善できる」と思え、その働きかけに応答が得られ、自分の力で環境を変えられると感じられれば、希望は失われません。

ずっと、希望を失っていました。ただちょっとしたきっかけで、自ら行動を起こすための決断をし、いろんな人の支援を受けながら挑戦していくうちに、少しずつ社会に作用していくことを知りました。運がよかったのでしょう。そして、未来に希望がない。そういう言葉を聞くたび、いろんな方々に伝えたい。ただ運がよかったでは、済ませたくないと思うのです。いま社会には成功体験を重ねることで、下降イメージを払拭することが必要です。希望を失わないために。

そのためにわたしたちは、「成功」や「下降」という概念を新たに捉え直す必要があります。冷静に考えれば、わたしたちの国は必ずしも悪条件だとは言えません。では何故、わたしたちは幸せを感じにくいのか。わたしたちより悪条件の環境に暮らすひとより、何故わたしたちは幸せを感じにくいのか。それは何かが不足しているからではない。認知の問題である。そう、感じるのです。

まずわたしたちは、わたしたち自身の認知を変えなければならない。その先には、共通言語のないあいまいな世界が待っており、わたしたちは価値観の違うもの同士、価値観が違うままで交流できるのか試されています。多様性とそれを支持する寛容性は、わたしが思う以上に苦しいものだと思います。たとえそうだとしても、そこに立ち向かわねばならない。希望ある、未来を信じられる社会をつくるために。

最後に、齋藤純一氏の『公共性』の一節を引用したいと思います。

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自らの言葉が他者によって受けとめられ、応答されるという経験は、誰にとっても生きていくための最も基本的な経験である。この経験によって回復される自尊あるいは名誉の感情は、他者からの蔑視や否認の眼差し、あるいは一方向的な保護の視線を跳ね返すことを可能にする。自己主張をおこない、異論を提起するためには、自らがある場所では肯定されているという感情がおそらく不可欠である。
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わたしが実現したいのは、この社会です。

以上がいま、ここで、この段階においてわたしが思うことの要約です。具体的なことに関しては、また追って書き記していきたいと思います。学び始めたばかりなので、至らない記述があると思いますが、みなさまの暖かいお心でお許しいただけると幸いです。なお、このブログは匿名で書いております。公職選挙法などについてもわからないことばかりなので、いまはまだこのような形態で書くことをお許しください。それではこれから、よろしくお願いいたします。